田舎で育てる、都会で育てる

連休中はムスコと三重の実家で過ごしたのですが、
夜は田んぼでのカエルの大合唱を聴き、昼間は5月のビビッドで目の眩むような緑の中、タンポポやレンゲやオオイヌノフグリが一面に咲き乱れる野原をムスコが駆け回るのを見ていると、もし、田舎に定期的に帰ってそこでの時間を過ごすという機会を持たなければ、ムスコは田んぼのカエルの鳴き声やら野の雑草を知らないまま大人になってしまうのだろうかと、とても不思議な気分になりました。私には当たり前のようにいつもそこにあった風景なのに、ムスコにとっては全くそうではない。そして都会の真ん中で育っていくといとも簡単にそれが普通になってしまう。
もし、そういった田舎の原風景を知らないまま育っていくのだとしたら、それがムスコの情緒や感性にどういう影響を及ぼしていくのだろうか?

ふと以前読んだ数学者の藤原正彦さんの著書の一節が頭をよぎりました。

「世界中の天才たちは例外なく、そのルーツを探ってみると自然と文明が調和した美しい田園地方で幼少時代を送っている。」

自分の子供が別に天才であるかどうかはともかく、やはり私自身の直感として、幼少時の環境と情緒や感性の発達には少なからず関係があるのではないかと思います。
人格の基礎を築く幼少期のうちに人工のものではない音、色、景色、感触に触れ遊び回っておくことはその後の人生の資産になるのではないかと。

あと、都会でずっと育ってしまうと、雰囲気だけで物事を見てしまいがちにあるというか、物事の客観的な姿を見ることができなくなりそうな気がします。桜の時期には大勢の人がどっと押しかける目黒川だって、冷静に見ればただのコンクリートで固められた汚いドブ川でおしゃれな要素なんて何もないし、都心の高級住宅地だって、別に交通の便やアクセスできる情報量の多さといったことを除けば、別にその辺の地方にある住宅地と何ら変わらずそのその景観だけをもってして特別なものでもなんでもない。都心の高級スーパーと言われる店で売られている「高級食材」も実際は単に鮮度の悪い生鮮食品が高値で売られているだけ。
多分田舎で育った人には純粋に「なんでこんなもんが?」と思えるようなものが真の姿からかけ離れたイメージとか雰囲気だけでもてはやされてたりしています。

もちろん都会で育つメリットは多いにあります。アクセスできる情報量、世界が圧倒的に大きい。私自身、高校生まで田舎で育つことで得たものはもちろん大きいですが、特に中学生以降は、同じぐらいの都会で育ったことで得られたであろう機会損失も少なからずあったと思っています。
まあ理想としては、少なくとも幼少期から小学生ぐらいまでは、何かしら田舎の風景に身を置くことで情緒や感性の基礎を築き、中学生から高校生ぐらいになったら都会に身を置いてアクセスできる世界やネットワークを広げていく、というのがいいのかも知れません。
それができなくても、少なくとも、子供にとって都会と田舎の両方に拠点がある、例えば夏休みには田舎のおじいちゃんの家に遊びにいく、といったような体験が必要なのだと思います。
それが難しければ、週末は郊外の田舎に散歩に行くとか、キャンプに行くとかね。

子供にとって、都会も田舎もどっちも必要なんです、そう思います。