日本では子育てしにくい?

金曜夜は保育園から水族館へ直行。年間パスの消化です。。。
最近仕事が忙しくお迎えが遅くなりがちで家に帰ってからも子どもにイライラしがちだったのでそれをクールダウン。

つい先日の日経新聞の社説で、「帰省ラッシュで混み合う新幹線の中で、母親がまるで母グマのような鋭い目つきで子供のオムツを替えている。」という記述が目に付き笑ってしまいました。おそらくこれを書いたのは女性記者だとは思うのですが、他に潰しが利かず倒産寸前、斜陽産業になっても相変わらず新聞記者というのは上から目線だなあと。「母グマ」って一体。。。
一方、それってまるで私自身の姿ではないかとも思うのです。私も、母グマならぬメスヒョウぐらいの鋭い目つきで子供の排泄要求を処理すべくテンパってましたから。

そういや私自身、子どもが生まれてからの方が10倍ぐらい凶暴になりました。気分はもうメスヒョウ、メス虎、メスライオンの類。母親が聖母のように優しいなんていうのは何も知らない人が持つ幻想です。子供をあらゆる外敵から自分が守って育てなければならない、といった責任と自負の念が私を凶暴にさせているのは間違いないのですが、もう一つ、他人に迷惑をかけてはいけない、社会の重荷になってはいけない、といった無言の社会的プレッシャーも、私や世のママ達を自分や家族や社会に対して凶暴にさせる原因ではないかと思うのです。
そういや、よく海外の人たちは、日本は子育てしづらいとかよくぼやいているなあ。私自身、厳密にはあまりそうは思わないのですが、(海外は海外なりに、概して治安が悪い、保育園やベビーシッター代がバカ高い、日本に比べ社会インフラが未整備で不自由等、子育てしにくい要素は盛りだくさんだとは思います。)彼らが口を揃えて言うのは、海外は子供に皆微笑みかけるけど、日本はそんなことなくて冷たくされる、といったひたすら感情的情緒的気分的なことでした。

これから思うに、欧米とアジアはその成り立ちからもともと社会や子供に関する意識が違い、それが子供への意識に影響しています。
原始から狩猟社会であった欧米は、役割分担が明確なチームで狩をするため、社会という文化が昔から確立しており、子供も立派な社会の構成員、チームの一員として育てる義務がある、といった意識がしっかり根付いている(=生まれた子供は親関係なくみんなで育てるオオカミ型社会)一方、日本やアジアなどの農耕民族は、役割分担が厳格なチームで作業するというよりは、とりあえず一人一人畑を耕す、たくさん作物を作るには働き手は多ければ多いほどいいけど、別にマンモスに殺されるわけではないので、役割分担が厳格なチーム体制を敷く必要はなく、ただ緩やかな個人の集まりによる労働集約体となる。厳格な社会という意識は確立せず、ここでは子供は単なる頭数の労働力(=モノ)と捉えられる。要するに子供はその家族の持ち物という意識があった。(=自分の子供しか育てないトリ型社会)

日本では、子供は他人の持ち物であって、社会の財産であるという意識がもともとなかった。だから、老人が「子供の声がうるさい」といって保育園の建設を反対したり、おじさんが新幹線での子供の声に舌打ちしてキレたりするのでしょう。
そしてそういった社会からの圧力を感じてしまうからこそ、私たちママは、過剰に反応したりして肩身が狭くなり、挙げ句の果てには家族や自分に対して凶暴化する。
でもこれって、太古の昔から民族的に続いていることだからすぐに変わるわけない。
私のこれへの対応策って? さらに凶暴化するところまでして心身もっと強くなって、世の中の冷たい感じをすべて雑音と割り切り無視すること。ノイズには付き合わず関わらないこと。ノイズに振り回されなくなれば、自分のやっていることは心底正しいと信じられるようになるし、自分のやりたいことや意見を通すべく突き進むパワーも湧いてくる。人生のノイズキャンセリングをして、自分がガンガン強くなって、自分で人生の満足度を上げるしかありません。