文月メイさんの「ママ」から児童虐待について思うこと。

数日前のNHKニュースで特集されていた文月メイさんの、「ママ」。
母親からの児童虐待で死んでしまった男の子の視点から、ママへの愛をつづった歌なのですが、放送以来何度も聴いては涙があふれて堪えることができません。

文月メイ「ママ」 - YouTube

ぼくね、天使になったよ。いつでもママを見守ってるよ。
だって、弱虫なママは、一人じゃ生きられないでしょ。
ごめんね、ママ、もうそばにいられない、明日を迎えられない。
でもぼくには、たった一人のママ、嫌いになったりしないよ。

子どもの親への「無償の愛」。
この歌のテーマとして(メディアが言う児童虐待というよりは)、この言葉が本当に相応しいと思います。
幼い子どもは自分だけで生きていくことはできません。親を頼らずには生きられず、そして親に嫌われることを何よりも恐れている。
子どもは本当にママ(親)が大好きなのです。
子どもの親への無償の愛、ママ、ママと毎日すがりついてくるムスコを思うと、胸がいっぱいになります。

始めから子どもを虐待したい親なんていません。
しかしながら、いざ子育てが始まってしまうと、疲労やストレス、孤立感、無力感、焦燥感が重なり、誰にでも一瞬自分を見失ってしまう瞬間があるかも知れません。
最近の親は未熟で我慢が足りない、などど浅はかな批判を無責任に言うことは簡単ですが、そんな意味不明なことを物知り顔に言いっぱなしにしたところで何の解決にもなりません。
個人の接する情報レベルの質、量ともに30年前と現在とではかけ離れており、昔と今の個人が置かれている状況は全く違うものなのです。

昔から人は、自分の置かれる外部の世界からの情報に触れることによって、自らの状況を認識し、感情を揺さぶられ、状況を変えようと行動してきました。
例えば、昔は厳格な思想や情報統制でうまく国としてのバランスを保っていた中国でも、インターネットが爆発的に発達した途端、外国からの情報に触れた国民達が自国の政策はどこかおかしいのではないかと声をあげたり、農村部の人たちが都市部の人たちとの生活格差を知ってしまいデモを起こすなど、昔のようにうまく国民の情報レベルをコントロールして国をまとめているようには見えません。最近の例では、SNSが発端となって中東でクーデターがありましたが、情報革命がもとで今まで疑いもしなかった自国の政府(=権威)に疑問を抱いた人々が行動を起こす例は枚挙にいとまがありません。
人が、日常的にたくさんの情報にさらされるということは、人が常に、外の、自分ではないどこかの人々の生活や思想に触れ、自分の置かれている状況と比較し、さらには自分の置かれている環境についていつも考え続けなればならないということを意味します。それは時には大変なストレスを伴います。

昔は、お母さんは、所属する家と集落とその隣接地域に関する情報だけを気にしていれば良かったのかもしれないし、それ以上の情報はめったに耳に入ってくることはなかったでしょう。
しかし、世の中は、テレビ網が発達し、雑誌を始め様々な出版物が溢れるようになり、現在はインターネットの時代です。facebookなどの各種SNSやblogなど、嫌でも他人の生活が目に入ってきますし、個人にとって、押し寄せる情報の洪水を生活から完全にシャットアウトするのは難しいでしょう。

ファッション雑誌や各種blog、facebooktwitterなどで、一見華やかそうに見える、外部の人たちの生活が否応にも毎日目に入ってくる中、特に自分一人で子育てを頑張っておられるお母さんは、ある意味、そういう人たちの情報に接していく中で、孤立感、焦燥感や無力感を感じやすい状況にあると思っています。

しかし、インターネットなどのメディア上で公開される、華やかそうに見える人たちの生活は、実際はその人たちの生活のごくほんの一面を切り取ったものにすぎないのです。
そういった情報の洪水にのまれ自分を見失わないための、私なりの簡単な意見をまとめておきます。何かの参考になれば幸いです。

1. 周囲にあふれるセレブ主婦は本当に華やかな生活をしているのか?

「収入が多いほど支出も多くなる。」
たかだかちょっと人より給料がいいくらいでは華やかな生活は続きません。高収入家庭ほど実はギリギリの生活をしている場合が多いのです。
以前私の周囲にいた、夫は高給取り、いわゆるセレブエリアに住み、高級外車に乗り、子どもをインターナショナルスクールに通わせている女性たちも、毎日遅くまで働き、ランチは弁当持参。日々の食事は生協で毎週一括オーダーして毎日自炊して節約し、電動機付き自転車で毎日鬼気迫る形相で子どもの送り迎えをしているという、決して華やかではない毎日を送っていました。
「あるハレの一場面を切り取った演出=華やかな日々の生活」ではないのです。

こちらのテーマについて興味のある方がおられましたら、詳細はこちらをご参照ください。↓
セレブ主婦の懐事情。 - MBAママの育児休暇

2. facebookで毎日パーティの写真をアップしている人は、本当に毎日がお披露目パーティなのか?

facebookなどのSNSは、普段会えない人たちの記念すべき日をお祝いして喜びを共有することができたり、色々な人と意見交換できたり、さらには災害時の連絡手段になるなど、私たちの生活を豊かなものに変えてきました。私自身も、よく利用し、遠くに住む親や親戚などに、節目節目に子どもの成長過程を知らせ、近況報告をしています。
しかしながら、「SNS疲れ」という言葉が最近メディアを賑わせているように、過度のSNSへの依存が人々の心に大きなストレスを生み出していることは否めません。
今食べているもの、今でかけている所、今会っている人etcと、毎時間ごとに実況中継のごとく写真をアップし、常に素敵?な演出に余念がなく次の自己演出のことで頭がいっぱい。
確かにこういう類いの人たちは国地域を問わずどこにでも一定数存在します。おそらく人一倍自己顕示欲が強く、承認要求が強い人たちなのでしょう。
この類いの人たちにとっては、SNSは、逐一自分の生活を公開して、他人にいいねと「承認」してもらうことではじめて自分の生活は充実しているんだ、間違ってないんだ、と確認し安心するための一種の精神安定剤の役割を果たしているのではないかと思われます。それは、ある意味一種の心の病を煩っている状態なのかも知れません。

3. お受験はさせなきゃだめなのか?

もちろんぜひ我が子をこの学校に入れたい!という強い動機がある場合はチャレンジしてみる価値があると思います。子どもの時の環境は後々の人格形成に大きく影響しますので、我が子にはできるだけ質の良い教育を受けさせたい!という親ごころは本当によく分かります。
しかし、そういった強い動機がなく、ただ、周囲がみなやっているからという受動的な理由でお受験について漫然と思い悩んでいるのなら、周囲に飲み込まれる前に少し頭を冷やして考えた等がいいこともあります。
というのは、早期からの受験教育の弊害として、幼児期から1つの正解を求めるという受験トレーニングを施してしまうと、子どもの発想や思考の幅を狭め、結果として子どもが指示待ち人間になりやすい傾向があるとの研究結果があるそうです。
私もいわゆるお受験組(とはいっても幼児からではないですが)なのですが、結果として進学したカトリックの学校は素晴らしかったと思う一方、考えろって言ったってどうせ正解があるんでしょ?と勉学についてタカをくくり、自分の意見はさておき大人(&受験界)の喜びそうな答えを挙げて正解と言われることに快感を覚えていたイヤな子どもだったことがあります。私はそこから脱却するのに以後本当に苦労しました。

早期すぎるお受験とグローバル教育のテーマについて興味のある方がおられましたら、詳細はこちらをご参照ください。↓
早期グローバル教育とグローバル難民 - MBAママの育児休暇

先日昇天されたアンパンマンやなせたかしさんはおっしゃいました。

アンパンマンは世界一弱いスーパーマンだ。濡れるとやられてしまう。しかし、また必ず復活する。
人生は長い、だから頑張っていれば必ずなんとかなる。

上記はママのストレスの原因になりやすいと思われる情報ノイズのごくほんの一例ですが、やなせさんのお言葉を胸に、洪水ような勢いで迫り来る情報ノイズの中、自分を見失うことなく、自分のやるべきことに集中して毎日を能動的に生きていきたいものです。